2022年度(R4)園長コラム
ぞう組のラストリトミック(2022年度3月園だよりから)
ぞう組のラストリトミック。
何気に私の手を引っ張って、みんなの輪に入れてくれた小 さな手。ただ優しいだけじゃないぬくもりが、そこにはいっぱいつまってた
みんな 友だち ずっとずっと 友だち
学校へ行っても ずっと 友だち
みんな 友だち ずっとずっと 友だち
おとなになっても ずっと 友だち
元気に歌うみんなの声が、たまらない
まだひと月あるのだから、このタイミングで号泣するのは、いささか本望ではない・・・が
そんな思いは一瞬で塗り替えられるわけで。。。
おはようの大好きぎゅうも また明日ねの大好きぎゅうも
みんながいたから できたこと
この場所で 同じ空気で呼吸した
みんながいたから できたこと
そう、みんながいたから 楽しかったんだ
みんながいたから 頑張れたんだ
大げさでもなんでもなく
みんながいたから 私は今ここにいるのだから
ずっとずっと 忘れない ずっとずっと 繋がっている
大切な 大切な たからものたち
泣いて帰った赤鬼(2022年度2月園だよりから)
園長先生のお姉ちゃん(2022年度12月園だよりから)
11月の集会で・・・
今日はね、紙芝居や絵本はないけど、園長先生のおはなし聞いてくれる?
~うんうんとうなづく子どもたち。
園長先生にはお姉ちゃんがいてね。実はね、10月に死んじゃって、今はもうお空の上なんだ。園長先生のお姉ちゃん、みんなが当たり前にできている事が、どんだけ頑張ってもできなかったの。
~えー!? の表情の子どもたち。
例えば、歩いたり、走ったり、食べたり飲んだり、そうだな、おしっこやうんちも自分でできないの。病気でね、手や足が自由に動かせなくて、いつも他の誰かに手伝ってもらわないとできないんだよ。ちょっとみんな考えてみて?
~みんな、目をしっかり開けて私を見ています。
自分でしたくてもできなくて、悔しい思いもしただろうけど、お姉ちゃんはいつも笑顔で頑張ってたの。
~終始静かに耳を傾けてくれた子どもたちでした。
今日はね、園長先生のお姉ちゃんみたいな人もいるんだよ、というお話しでした。
ユニフォーム(2022年11月園だよりから)
何かに憧れて自分を鼓舞すること、それは年齢関係なく、0歳児さんも同じです。ガラスにへばりついて見る視線の先には、太鼓やシンバルを手に鼓隊の練習をする5歳児の姿があります。
意欲は楽しそうと感じる好奇心から生まれます。よちよち歩きの時に手をたたいて嬉しそうに見ていた、その記憶を温めて上書きしながら成長した姿が5歳児ぞう組さんです。
子どもは、いろんな「楽しそう」を紡いで、たくさんんの糸をつくり、「やってみよう」の気持ちでどんどん繋げていきます。そして、続けることやちょっと頑張る事が心地よいものだと感じた時、それは素敵な布になり自分をまとってくれるのです。同じものは存在しないし、色も形も自由自在のその服は、凄い力を与えてくれる見えない魔法のユニフォームなのかもしれません。
金魚からの手紙(2022年9月園だよりから)
ありがとう(2022年度8仏教保育カリキュラム巻頭言より)
♪♬ 来ました来ました 楽しいお盆 迎え火焚いて ののさまを みんなでお迎えいたしましょ 年に一度の 魂祭り♪♩
仏教保育園ならではのお盆の歌。今年もかわいい声が響いている。
幼い頃、お盆は楽しいものだった。親戚がたくさん集まってきて、久しぶりの従妹たちと遊んだり、大人に混ざってちょっぴり夜更かししたり。何より嬉しかったのは、お盆はいつもより、おしゃれな服を着て、髪もきれいにセットしてもらえたこと。きっとお母さんが親戚のみんなに会うからと気を使って、精一杯かわいくしてくれたのだろうと、今になってみると想像がつく。お盆の前になると、車で一時間半ほどかかる街に行き、服や靴を買ってもらうのが楽しみで楽しみで、山のくねくね峠道を45分ほど走ってから、うあーっと広がる妙に明るい風景を思い出すと、今でも胸がきゅんとする。
そんな、楽しくて待ち遠しかったお盆が、ご先祖様をお迎えして、感謝の思いを集わせる大切な魂祭りであることを知ったのは、しばらく経ってからだった。
在家でありながら得度を受け、導かれるままに僧侶の入り口に立っている私は、何を隠そう仏の道はまだまだ何もわからない。そんなことを言ったらお叱りを受けるかもしれないが、事実そうなのであり、仏教行事では、布袍に折袈裟をつけ、わかったような顔をして南無阿弥陀仏と手を合わせている。本当はとてもおこがましい気持ちで、背伸びをしようにも足首も伸ばせないほど、未熟極まりないのである。
ただ、お盆が楽しくてたまらなかったあの頃から、手を合わせるときの温もりと静けさが、心の芯を掌っているように感じていた。その純粋な感覚を今でも信じることができたからこそ、得度を受けて僧籍を取ること、歴史ある仏教園の園長を継承することを「お導き」として自分の躰に落とすことができたのかもしれない。そしてそれは、「ののさま」のお側で30年近く保育に携わる中で自然に流れるようになっていた、さらさらした柔らかい血のお陰のような気がする。
今年のお盆は、お母さんが帰ってくる初めての魂祭り。
重度の障害を持った姉に全てを捧げ寄り添った母。優しさも厳しさも含んだ母の頑張っている姿を見ながら育った私は、なんでも自分でやってのける世話のかからない子だったという。 寂しいと感じないように、自分のことに気を向けてくれる瞬間瞬間を敏感にキャッチして、勝手にポジティブに捉えていた幼少期だったのかもしれない。
だから、最後にその母を介護することができたのは、私へのプレゼントだったに違いない。幼い頃の触れ合いを優に超える二人の濃密な時間であった。
食べられなくなり、飲めなくなり、尿も、便も出なくなり、枯れていくように逝く準備をする母から聞こえた微かな声はいつも「あ・り・が・と・う」。
本気で別れを覚悟した2週間。そして、最期の呼吸を営む母を腕に抱かえ、その時が来てしまった。
私もやっぱり「ありがとう」しか声にできなかった。何回も何回も繰り返し伝えた。
ありがとう ありがとう 大丈夫、私は寂しくなかったよ。
待ち遠しいお盆。話したいことがたくさんある。
お父さんとは仲良くやってますか? 取りたかった車の免許は取りましたか?
たくさん遊んでますか? ぐっすり眠ってますか?
こちらはみんな元気です。あなたの愛した孫たちも曾孫もみんな元気です。
お姉ちゃんも、透析に助けてもらい頑張ってます。でも、長い入院生活で面会もまだ許されていません。できたら毎日代わりに会いに行ってやってください。
それから、いつかそっちにお姉ちゃんも召されていったなら、そのときは、自分の足で走って、自分の手でご飯が食べられる、ごく普通の生活が送れるようにしてあげてほしい。ずっとずっと夢見ていた親孝行をいっぱいさせてやってください。
自分の力ではどうすることもできないこと、誰の力を借りてもどうにもならないこと、人生には仕方のないことがたくさんある。どんなに願っても頑張っても、変えることができない事実は存在するのかもしれない。
今、私たちが命をお預かりしている子どもたちも例外ではなく、それぞれがそれぞれの「仕方のないこと」に出合うのであろう。
10年後20年後30年後、何歳になっても、ありがとうと思える心が消えてしまわないように、今の育みがあるのだと、お盆の歌を唄う幼い手を包むように両手を合わせ伝えていきたい。
かわいい みんな
ここに居てくれて ありがとう
南無阿弥陀仏 ありがとう
年に一度の魂祭り。
高田本山 仏教賛歌の集い(2022年度6月園だよりから)
愛情に勝るお薬なし(2022年度5月園だよりから)
ワクワクとドキドキが混ざった気持ち。どう表現したらいいのかな。お母さんに伝えたいけどな。。。。。 えーーい! 泣いちゃえ。ママの困った顔見たくないけど、だって、だって、大好きだもん。
1ヶ月が経ちました。慌ただしい毎日をお過ごしかと思います。朝は特に半端なく忙しい。でも実は、その半端なくバタバタする時間こそが、一番大事な始まりの時間なのですね。 優しい「おはよう」ぎゅうと抱っこ、元気な笑顔の「行ってきます」。この2つは子どもが穏やかに1日過ごすための活力源です。忘れたくないですね。お仕事や家事に心を込めることができる活力源もきっと同じです。それは親子で歳を重ねても変わりません。ばーばだって同じです。リポビタン(タウリン3000)より効果爆発ですから、愛情に勝るおクスリはないと言うことですね。
集う命、巣立つ命(2022年度4月園だよりから)
子どもたちが巣立っていく時、泣けてくるのはなんでだろう。
小さかった入園のころを思い出すからかもしれない。別れが寂しい、もちろんそう。
でも、それだけではない。
この子たちの明日が幸せでありますように。
10年後、20年後、ずっとずっと笑顔でいられますように。つらい時も苦しい時も、助けてくれる誰かが側にいてくれますように。
そして、どうか命を大切に、その瞳が輝いていますように。
そうありたくても叶わない人がいる世の中で、どうかこの子たちが幸せで・・・と願う私は、不平等な人間かもしれない。 全ての子どもたちの幸せを願っていないわけではない。でも、どうか、この子たちは、ここから出発する子たちは・・・と願う自分がいる。私は、保育者として、僧侶として失格なのだろうか。
高田保育園に集う命を愛して止まない。